ほぼ毎日一枚立ち撮りフォト by Jose (簡易版は↓)

2017 / 10
09≪ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 ≫11

古代ロマン山之辺ポタ 20/21--石上神宮2 20110421

2011/05/08(Sun) 08:00
神鶏 石上


4月21日撮

内山永久寺跡から山之辺の道を進むと石上神宮に出る

「石上神宮」(いそのかみじんぐう)は西暦250年ぐらいから物語が始まる神社で
武門の棟梁・物部氏の総氏神、大和朝廷の武器庫、神剣・布都御魂を祀っている神社だ。

元々はは神蘺(ひもろぎ)と呼ばれる瑞垣内の禁足地を祭祀の対象としてきた神社で
明治に環頭大刀柄頭、勾玉、管玉などが出土、現在は本殿も拝殿もあり、
特に百済から送られた西暦369年にあたる年号を記した七支刀は有名。

名物、放し飼いの神鶏、若冲もこんなのをじっと眺めていたのかな?

山之辺の道、砂利道、石道、ガタガタ道と押し歩きのポタリング32Km。
家に帰るときずいたのだが、舗装道とは違い、
道からの振動がモロに手首・肘・腰・背筋・首にきて、結構厳しい道だった。

続きはこちら





ポタリング山の辺の道 コメント:0 トラックバック:0

古代ロマン山之辺ポタ 18/19--波多子古墳から永久寺廃寺跡 20110421

2011/05/07(Sat) 08:34


3SC_5877_20110421_57323b7.jpg

4月21日撮

大和古墳群の1つ「波多子塚古墳」

この辺りは奈良盆地有数の古墳密集地帯で、大和(おおやまと)古墳群と呼ばれ
その一つの「波多子塚(はたごつか)古墳」。
3世紀後半築造で、古墳時代初期の古墳と推定されている。

竹之内環濠集落
戦国時代、外敵の侵入を防ぐため、周囲に水濠を巡らせた集落だが
「環濠」の写真なし。

夜都伎神社(やとぎじんじゃ)は、春日神社とも呼ばれ、
奈良の春日大社と同じ四神を祀っている。
古くは水の神を祭ったといわれている

夜都伎神社を過ぎると登り坂の舗装道路になる。途中左に入り観光農園を通り越すが
この辺りは押して登ることになり、その後は下り勾配の小道で、下ると永久寺跡だ。

内山永久寺は、1115年頃(永久年間)創建され、
50以上の堂塔が並ぶ大寺院だったようだが、今は本堂の跡が池になっているだけだ。

続きはこちら



ポタリング山の辺の道 コメント:0 トラックバック:0

古代ロマン山之辺ポタ 15/16/17--御旅所坐神社から衾田陵 20110421

2011/05/06(Fri) 08:02
3SC_5814_20110421_57260b7.jpg

4月21日撮

長岳寺から御旅所坐神社、念仏寺と燈篭山古墳、衾田陵まで

長岳寺は平安の824年淳和天皇の時代、弘法大師が創建したと言われている。
創建時の面影を残す唯一の建物で、我が国最古の鐘楼門が有名だそうだ。

山之辺の道を走り、坂を上がると中山大塚古墳である
ここには古墳の前方部南端の古墳を少し削った所に
後円部から移した御座所坐神社(おたびしょにいますじんじゃ)
(大和稚宮)が置かれている。

絵は歯定神社(はじょう)、注連縄をまいた石が3個据えられ、「歯の神様」である。


「灯籠山古墳」の角を右に曲がると行基が興し、
室町時代に地震で炎上、再建されたした念仏寺。

燈篭山古墳は奈良盆地でも最大級の郷墓で近在の村落の共同墓地になっている。

衾田陵
宮内庁認定では第26代継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかひめみこ)の
「衾田(ふすまだ)稜」とされているが、埴輪以前の特殊器台などが出土し、
6世紀前半の皇后陵でなく、3世紀後半、邪馬台国の女王・卑弥呼や台代(とよ)の墓
ではないかと云われ、手白香皇女の陵は、6世紀前半ころの西山塚古墳では・・と言われている。

続きはこちら



ポタリング山の辺の道 コメント:0 トラックバック:0

古代ロマン山之辺ポタ 11/12/13/14-穴師坐兵主神社から櫛山古墳- 20110421

2011/05/05(Thu) 10:07
相撲神社


4月21日撮

山の辺の道から山方向へ登ったところに三ツ屋根造りの穴師坐兵主神社と
大横綱の大鵬と柏戸がやって来て、土俵入りをしたことがある相撲神社がある
 
相撲神社から少し下り、見逃しやすい看板だが右に入り景行天皇陵へ向う途中に
神霊を迎えたといわれている「神蘺ひもろぎ」がある。

ここを通り抜けると景行天皇陵と伝えられる渋谷向山古墳

景行天皇陵から国道169号線で崇神天皇陵へ向う
途中に伊射奈岐神社、奥へ進むと三角縁神獣鏡だけでも33面も出土したという黒塚古墳

ここから崇神天皇御陵と櫛山古墳を抜け長岳寺へ向かう


絵は相撲神社、野見宿禰(のみのすくね)を祀る社で、
出雲の国から呼び寄せた野見宿禰と當麻蹶速(たいまのけはや)が
初めて天覧相撲を行ったところで、相撲の発祥の地と伝えられる。

続きはこちら





ポタリング山の辺の道 コメント:0 トラックバック:0

古代ロマン山の辺ポタ 8/9/10--箸墓古墳・ホケノ山古墳 20110421

2011/05/04(Wed) 07:48
3SC_5693_20110421_57139b7.jpg


4月21日撮

桧原神社から山之辺の道を離れ西へ。すべて下り、急坂もあり、JRを越え、
卑弥呼の墓と言われ始めた箸墓古墳へ向う。

纏向(まきむく)遺跡にある全長約280メートル、日本で最初の巨大な前方後円墳、箸墓古墳。
築造時期は西暦280~300年ごろと推定され、
「昼は人が造り、夜は神が造った」という伝説が残る。

自然の地形を利用して造られず、平地から直接土を盛り上げて急勾配に造られている。

箸墓古墳の被葬者は台与、西殿塚古墳(衾田陵)は
ミマキイリヒコ「大和王権の初代の崇神天皇」とも言われている。

箸墓古墳から山之辺の道方面に行く途中にホケノ山古墳がある

この古墳もミステリーで築造年代が225~250年頃と
木棺破片からの放射性炭素での年代測定法で推定されている。

魏志倭人伝での邪馬台国の女王・卑弥呼が死んだとされる正始9年(248)と一致し
画文帯神獣鏡と内行花文鏡が出土したという伝承があり
大神神社にはこの古墳出土と伝わる画文帯神獣鏡が保存されているという

前方部が非常に短い前方後円墳で、木棺などの埋葬位置や
「石囲い木槨」という河原石を積み上げた様式など弥生時代の墓制を引くもので
古墳時代初期の竪穴式石室に先行するものと推測されている

ホケノ山古墳を後に、川沿いで山之辺の道をめざし、相撲神社に向う
途中で道を尋ねるとここで左折れ、判り難いが次を右折れだと教わり

途中6世紀の後半の築造と考えられる柳本古墳群の中に位置する前方後円墳、
珠城山(タマキヤマ)古墳をすり抜け、山の辺の道を横切り、穴師坐兵主神社に到着


続きはこちら



ポタリング山の辺の道 コメント:0 トラックバック:0

古代ロマン山の辺ポタ 6/7-狭井神社から桧原神社- 20110421

2011/05/03(Tue) 09:37
3SC_5680_20110421_57126b7.jpg

4月21日撮

大美和の杜から薬草や薬木が植えてある砂利道の「くすり道」を走り
病気平癒の信仰があつい狭井(さい)神社に出る

途中の少彦名命を祀る医薬治療の方法を定めた神で「神農さん」と呼ばれている磐座(いわくら)神社は見過ごし。

狭井神社は大神神社の摂社で「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社」
と言い、創祀は垂仁天皇の時代、荒ぶるような猛々しい働きをもって現れる霊魂
「大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)」を主神として祀る。
戦時や災時などにあたって現れ、祭祀(さいし)を受けることによって和魂(にぎみたま)
の性質に変わるといわれている。
拝殿の後ろに「薬水」と呼ばれている「神水の井戸・狭井」があるが撮り忘れた。

辰五郎大明神・玄賓庵を経て桧原神社へ


桧原神社は伊勢神宮のはじまりとされた笠縫邑(かさぬいむら)があった台地にあり
今は元伊勢と称される大神神社の摂社で天照大神を祭る。。

絵は豊鍬入姫宮、女性の神主さん。

続きはこちら



ポタリング山の辺の道 コメント:0 トラックバック:0

古代ロマン山の辺ポタ 4/5 --大神神社と大美和の杜 20110421

2011/05/02(Mon) 08:56
3SC_5650_20110421_57096b7.jpg

4月21日撮

北上、三輪成願稲荷社を経て大神神社に出る
自転車は持ち込み禁止なので拝殿前だけは(本殿とは呼ばない)ご遠慮し、
1段下の道を押して横切らせていただき、大美和の杜に出る。

大神神社、通称三輪明神は我が国最古の神社で
大己貴神(おおなむちのかみ)通称大国主神が、
自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、
大物主神の名でお祀りされたのがはじまりとされている。
拝殿の奥の三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられている。


三輪成願稲荷社
大神神社の神宮寺の一つ浄願寺(廃寺)の鎮守社で創祀は正応3年(1290)
現在は大神神社の末社

大美和の杜 

少し上がり茶店を越えた辺りから大美和の杜の展望台に上がる

薄ピンクのしだれ桜が見頃・散り頃で、
展望台からは
左から、天の香具山・畝傍山・耳成山の大和三山や大神神社のシンボル「大鳥居」が
葛城山、金剛山、二上山などを背景に見渡せます。

続きはこちら



ポタリング山の辺の道 コメント:0 トラックバック:0

古代ロマン山の辺ポタ3--平等寺 20110421

2011/05/01(Sun) 08:43
3SC_5629_20110421_57075b7.jpg

4月21日撮

平等寺伝は聖徳太子を開基とされているが、慶円を開山者、空海説もあるそうだ。
確かなのは鎌倉時代以降の1236年(嘉禎2)で、平等寺が存在し、「三輪別所」と呼ばれ、
鎌倉末期には「学衆(興福寺)」と「禅衆(醍醐寺)」という、二つの僧侶集団が共存する時代もあったそうだ。
江戸時代には真言宗の寺院となりつつも、修験道も伝えていた。
1868年(明治元)の神仏分離で三輪社の社人が管理し、廃止。
1977年(昭和52)、曹洞宗の寺院「三輪山平等寺」として再興された、
とうい由来も経緯も複雑なお寺だ。


続きはこちら



ポタリング山の辺の道 コメント:0 トラックバック:0

古代ロマン山の辺ポタ --1/2--仏教伝来から磯城瑞籬宮 20110421

2011/04/30(Sat) 08:00
3SC_5586_20110421_57032b7.jpg

4月21日撮

朝6時前のラッシュを避けてのJRで、鶴橋乗換え近鉄桜井へ。
乗り換え回数、乗換駅の手間、で経路を決める。

山之辺の道・桜井--天理ポタリング。

まずは桜井の仏教伝来地碑と海柘榴市観音堂、金屋の石仏と磯城瑞籬宮まで。

日本最古の官道「山の辺の道」のスタート地点、初瀬川堤の仏教伝来之地碑。

日本書紀・欽明天皇13年(552年)百済の聖明王からの使いが来て、
お釈迦様の金銅製仏像、一光三尊の阿弥陀仏、百済大仏、幡蓋(はたきぬがさ)など
を献上したと記されているのを根拠に建てられたそうです。
公式の上陸地と言えそうですね。
それ以前から渡来人によって仏教はもたらされていたと思われますが。

それ以前の倭(日本)は神の国ということで

自然崇拝、神籬・磐座信仰であり、神社の「社(やしろ)」とは別に
境内にある注連縄が飾られた御神木や霊石、境内に限らずその周囲の「鎮守の森」、
海上の「夫婦岩」などの巨石などが「神」として崇拝されていたようです。

またここは欽明天皇の皇居、磯城嶋金刺宮など数々の天皇の宮跡伝承地でもあります。


最古の海外交易の市、海柘榴市(つばいち)は、大阪--大和川を結ぶ川船の終着地点で
山の辺の道など初瀬街道が交差する陸上交通の要衝・最古の交易市場だったそうです。

日本書紀には推古天皇16年(608年)小野妹子が遣隋使、裴世清(はいせいせい)を
伴って帰国し、飛鳥の京に入るとき、飾り馬75頭をつかわして海柘榴市の路上で
阿倍比羅夫に迎えさせた、と書かれているそうです

海柘榴市(つばいち)と呼ばれるのは三輪山の椿に因む、ともいわれています。

初瀬川を渡り、少し上がったところに金屋の石仏がある

この石仏、右が釈迦如来 左が弥勒菩薩と推定され、高さ2.14m、幅83.5cm、厚さ21.2cmの
2枚の泥板岩(石棺の蓋)に浮き彫りにされている。国宝。
平安後期の貞観時代~鎌倉期の作と言われている

磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は日本書紀に記載されている崇神天皇王朝の都。
桜井市金屋にあったと推定されており、
志貴御県坐神社には、大正年間に「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が建てられたそうです。

続きはこちら





ポタリング山の辺の道 コメント:0 トラックバック:0
 Home 

プロフィール

jose

最近の記事

カテゴリー

月別アーカイブ

最近のコメント

最近のトラックバック

翻訳:español =スペイン語

RSSフィード

ブログ検索

リンク